繭の記号論—メタモルフォーゼの観点から
1.はじめに
大会のテーマは「繭」です。イタリア出身の哲学者エマヌエーレ?コッチャの考えに由来し、大会実行委員長の大久保美紀さん※1が導入したものです。大久保さんは2025年の論考で、コッチャの次の言葉を引きながら、繭を技術哲学の問題に結びつけていました。
「繭が具現化している技術の考えでは、世界を操作することは、自分自身の本性を手放すこと、その本性を外部に投影するのではなくみずからの内部で変化させることを可能にするものとなる。」「技術—繭を構築するわざ—によって自己は、変様作用の主体になると同時に、その対象や手段にもなる。技術は、生と対立したり生を外部へと延長したりするような力ではない。技術とは、生の最も内的な表現、その本来的なダイナミズムでしかない。」※2
そこで大久保さんはこの繭の考えと、西洋だけでなく複数の技術哲学を認めるべきとするユク?ホイの「宇宙技芸」論ならびにベルクソンの「一般器官学」を結びつけた議論を展開しています。それにより、ハイデガーの技術哲学以降近代技術や科学的言説から疎外されてきた芸術を、技術に関する表現の一形態として捉え直し、「世界について根本的に新しい視点を提示し、現実世界を変化させうる」という、芸術がもつ真の価値を提示しようとしていたのです※3。大会第2セッションで、ホイの翻訳者の一人である原島大輔さん(『再帰性と偶然性』青土社)と、ベルクソン哲学からメディアアートを再考している小林茂さん、そして生物学を修めたアーティストである石橋友也さんが召喚されていたのは、この議論をさらに深めるためと思います。
それだけでなく、大久保さんは、2025のもうひとつの論考で、ポスト現象学の技術哲学者フェルベークを引きながら、技術の道徳性の問題についても論じています※4。大会第1セッションで、メディアテクノロジーとケアの倫理を問う金山智子さんと、技術哲学、ロボット倫理学が専門の久木田水生さんが召喚されていたのは、そこでの議論をさらに深めるためと思います。
この全員をほんとうに大会に集結させた大久保さんの人望は驚嘆すべきものがありますが、そこに参加したわたくしは、技術哲学総まくりとでも言うべき大量の言葉を浴び続けたため、いまだにその残響で耳鳴りがしている状態です(セッションだけでなく、展示もあるのです)。わたしだけでなく、この大会が多くの人に強烈なインパクトを与えたことは、大会終了後、すぐさまこの大会第2セッションを引き継ぐ二つの研究会(2025/8/17, 8/20)が企画されていることでも明らかでしょう。素晴らしいことです。
それだけに、現時点で足彩澳门即时盘_现金体育网¥游戏赌场を作成するのは、かなり骨が折れました。以下はまだ耳鳴りがする状態でかろうじて見えてきたひとつの道筋に基づいてまとめたおぼろげな描像にすぎません。原島さんのご講演のように、そのスコープの広さから取り上げることができなかったものもあります※5。なにとぞご容赦ください。この大会の真の成果は、この後必ず、次々に芽吹いてくることと思います。

日本記号学会第45回大会「繭の記号論」ウェブバナー(デザイン:岡澤理奈)
2.セッションの振り返り
大会テーマは「繭」でしたが、わたしはその核心を「メタモルフォーゼ」と考えます※6。昆虫の変態を思い浮かべればすぐにわかるように、重要なのは、時間における変化を考えること、しかも人間をそのなかに含むより大きな視点から考えることです。ここからわたしなりに、各セッションを振り返ってみようと思います。3つのセッションで語られたことはあまりに多く、登壇者のバックグラウンドも多様なため、わたしが関連づけることができたのはそのごく一部であることを、あらかじめお断りしておきます。またバックグラウンドを理解するために数多くの文献を参照しなければなりませんでしたが、そのために語られたことと書かれたこととが混在しています。その点もお断りしておきます。
2.1人?能力?今?エビデンスだけを重視するのはやめよう(繭のエチカ)※7
昆虫だけでなく、わたしたちもこどもから大人へのメタモルフォーゼを経験しており、ほんらい変化は誰にとっても身近なはず。しかもその変化は、わたしたちが「自分」の意志で成し遂げたことではなかったはずです※8。なのにそのことを忘れ、確固たる「自分」が「世界」や「他者」に対峙しそれを動かす「能力」(できること)を有しているのだと思い込んでいます※9。だからまずそのしんどい倫理(ethics)を見直してみよう。これが第1セッションに向けた大久保さんからの呼びかけだったのでは、と思います。
ではなぜ見直しが必要なのでしょうか。それは、この思い込みから、自分を変えずに他を変えようとする、人間中心の奇妙な企てが生まれてきたからです※10。人間が影響を被ることなく、人間の外部に延長されたさまざまな技術的対象を用いて自然環境を改変するという不可解な試みもそれです。同様に人間は、神経系の延長としてのコンピュータやインターネットまたそれらと連動するロボットを、人間の外に生み出したつもりだったわけですが、案の定、それらに影響されはじめました。
技術的に計算可能な倫理をロボットに実装しようという、第1セッションで久木田水生さん※11が紹介した「モラル?マシーン」の議論は、この影響に対応するためのものです※12。しかしそこでは、なんとかして人間が変わることなく、他者である機械の方に変わってもらえないか(人間の道徳を理解してもらえないか)という、奇妙な試みがいまだに続いているようにも見えます。
それだけでなく、こうした見方は、未来が危ういという危機感から一本の直線で未来と今を結び、今なすべきことを矢継ぎ早に押し付け「今」※13しか見えなくするため、時間についての考えを貧しくするだけでなく、わたしたちから変化の可能性も奪ってしまいます※14。
これに対して、同じ第1セッションで金山智子さん※15が論じた「ケア」は、「できない/できる」という二分に基づき「できない」ことはダメとする思考法を退けた、「相互配慮という多様で伸縮性をもつ関係性」※16であり、深い共感のもと、自他がともに変化することを厭わないところに大きな違いがあります。それが多様な関わりあいであること、そして伸縮性をもつ、とあるように、変化する時間的かかわりあいを生きていることも重要です。ケアの実践は、そこに関わる多様な人が生きる異なるスパンの「折り重なり」、「複雑なリズム[ポリリズム]が織りなす可変体」※17である経験的時間のなかで生まれていくのです。

金山智子さん
しかしこうしたケアの考えにも批判があります。セッションで語られたことではありませんが、AIによるケアの支援を考える研究者は、ケアの語り(インタビューを基としたナラティブデータ※18)の価値は正当に認めつつも、それが「語り手の属人的な背景に大きく依存」した「主観的な非構造化」データであり、「ナラティブが得られたコンテクスト(対話の流れやインタビュアの質問の流れやその関係性など)に強く影響を受け」ているとします※19。哲学の側からも、「インタビューデータ以外の指標も参照すべき」であり、「仮に参与観察をして、臨床の録画データを継続的に収集できれば、ある看護師の日常業務における患者への声のかけ方、患者に語りかけながら同時に行う業務の手ぎわ、必要な器具や薬品の取り扱い方、器具の並べ方、置く際の力加減、他の看護師と患者にかける語勢やトーンの違い、救急時と平時の見回り行為の変化等々」、ケアに有用な「記述を練り上げる手がかりを増やす」ことができるはずだという指摘があります※20。いずれも、共感した当事者同士のあいだだけに流れる多様な時間だけでなく、外から計測可能な、第三者や機械にも共有可能な時間を前提にした批判です。さらに、セッションで久木田さんが発した、「共感の倫理は正しい、でもそれだけでは、共感できないあるいは共感しにくい相手※21との対話を閉ざすことになる」という言葉は、大会中最も印象に残ったものでした。
けれども人と技術、人間の時間と計測の時間が対立していると考え、どちらかを選ぶべきとするのは間違いです。久木田さんたちが訳した『生まれながらのサイボーグ』のなかで哲学者アンディ?クラークは、人の心が皮膚の内部で境界づけられ制限されていたことは、「祖先が暮らしていた平原のどこかで初めて意味をもった言葉が発せられて以来、一度もなかった」し、心は「テキスト、PC、共進化するソフトウェアエージェント、ユーザーに適した家庭用品や事務用品が登場するにつれて」「頭の中には収まらなくなってきている」※22と述べていました。まさにそのとおりで、人も技術も変化しながら共生してきたのです。金山さんもまた、セッションのなかで、「新しいテクノロジーと格差」を考えることはもちろん大事だが、それと同時に「テクノロジーを用いたエンパワメント」も考える必要があると述べ、その流れのなかで、動画共有ソフトに映像を公開していたMel Baggsさんに触れていたのです※23。
結果的に第1セッションでは、こうした見かけの対立を通した議論により、思考の幅が広げられました。それは、次のセッションで、この見かけの対立に囚われず、より大局的な視点から、人と技術が協働で起こす変化の可能性についてさらに考えさせるための、大久保さんによる仕掛けだったのでは…と、いま振り返りをしながら感じています。

左から、久木田水生さん、秋庭史典(著者本人)、金山智子さん
2.2 マルチ時間スケールから見る生物?人?技術(繭のアルス)
第1セッションでの議論から示唆されたのは、人と技術が協働で引き起こす変化の可能性を考えるためには、時間についての考えをあらためる必要があるということです。計測の時間と体験の時間をただ対立させるのではなく、生物や宇宙全体の進化を視野に入れたベルクソン哲学に由来する四つの時間レイヤー(マルチ時間スケール)※24から導出される時間の「相aspect」のもとで捉え直すことにより、人と技術が協働で引き起こす変化の可能性を明らかにしたのが、第2セッションにおける小林茂さんの講演とわたしは考えました。小林さんは、平井靖史さんとの共著論文※25に基づき、二つの未完了相(imperfective aspect)から藤幡正樹《Light on the Net》(1996/2024)※26を論じました。
その議論を理解するために重要なもう一つのキーワードが、生態学的な「ランドスケープ(landscape)」です。それは普通に言う風景=眺めのことではなく、「環境のなかに配された種に特有な潜在的行為の分布」※27のことで、それぞれの種の分解能に特有の行為可能性を記した地形図(ただし可変)のようなものです。生物は、それをあらかじめ環境に投げておくことで、手間を省きリアルタイムに意思決定=行為することができます。その意味でこれは、単なる人間中心の技術観を超える考え(アルスars)になっています。
小林さんと平井さんは、ベルクソン哲学に基づき、三つのランドスケープを構想しました。それが「運動記憶(motor memory)」によりあらかじめ形作られた「知覚のランドスケープ(perceptual landscape)」、「想起(remembering)」を可能にするとともに拘束もする「記憶のランドスケープ(mnemic landscape)」、そして、それらが未完了相を開くことにより生じる「ランドスケープの変様 landscape transformation)」です※28。そして、作品がどのレベルまで、「進行し続ける未決の生成状態」すなわち未完了相(「決まりつつあるが決まってはいない」)の窓を開くことができるかを確かめたのです。
理論的説明はおくとして、ここでは理解のために、共著論文で取り上げられているジェフリー?ショー《レジブル?シティLegible City》(1988-1991)を例に確認してみましょう。この作品は参加者の多くが経験済みの自転車漕ぎという運動記憶を利用しているため、作品へのスムーズな導入を促します。しかし自転車を漕ぎながら巡る都市が3DCGという未経験の姿で表現されているため、知覚のランドスケープに未決の生成状態が生じ、知覚上の未完了相(perceptual imperfective)を開きます。また、自転車漕ぎがもたらす記憶のランドスケープも、アルファベットで構成された都市の建造物のあいだを自転車で巡るという、記憶から逸脱した経験のために未決状態に置かれ、記憶の未完了相(mnemic imperfective)を開きます。しかしこの作品は、現実世界の諸規則をVR空間でなぞっており、しかも現実世界には直接干渉しないよう設置されているため、参加者は自らのランドスケープを書き換える必要までは迫られません。そのため、実存的未完了相(existential imperfective)は開かれません。参加者の知覚ランドスケープ+記憶ランドスケープそのものの書き換えを引き起こすような作品でなければ、実存的未完了相を生じさせ、ランドスケープの変様をもたらすことはできないのです※29。
藤幡正樹《Light on the Net》(1996)も、三つの未完了相から理解できます。第一に、「参加者がブラウザを介してインターネット上でライティング装置[のon/off]を操作するという新たな体験」が知覚の未完了相を開きます。加えて参加者が[on/off]操作を開始してから結果としてブラウザ上に[on/offの]視覚的反応が結果するまでに(1996年当時のシステムの制約により)15秒の遅延(latency)があった※30ため、操作結果の確定前に他の[同様にon/offを行う]参加者から予期せぬ干渉を受けてしまい、そのことで参加者のなかに形成されていた記憶パターンが中断され、「体験をリアルタイムで再構成することを強いられ」ますが、そこで「記憶の未完了相」が開かれます。さらにそれが現実世界に干渉することから、実存的未完了相も開かれるのでは、と思われます※31。人と技術が協働で引き起こす変化の可能性がここに見られるのです。
さらに重要なのは、この作品の再制作(2024)に際して、重要なのは15秒ではなく、「現在の幅を超えた想起と先取り(recall and anticipation)を必要とする、主観的時間経験における『間interval』」であるとされたことです(藤幡さん自身もかつてそれを「間」と呼んでいたそうです)※32。そして、いまのわたしたちにこの未完了相をもたらす「間」が、現在の計測可能なシステムの時間で「6秒」と定められました(15秒という長時間システムが反応しなければ現在では故障としか思われない、技術的環境の更新に応じてわたしたちの知覚+記憶ランドスケープも更新されているのです)。計測の時間と体験の時間は対立しているのではなく、独立しつつ相互に作用していることが大事です※33。
この未完了相と並び、第2セッションで石橋友也さん※34が哲学者エリー?デューリングを参照しつつ提示した「失敗(échec)」の概念も重要でした※35。完了相があるから未完了相が開かれるのと似て、作品として閉じるからこそ新たな可能性に開かれるのであり、プロセスの切断としての作品がなく、抵抗や摩擦のない環境におかれた失敗のありえないプロジェクト型アートからは何も生まれないのです。
「現実の摩擦の中で規定され、それらと強く接着し適応した存在」としての「生きた素材の[環境やテクノロジーによる]操作や改変を通じ」、「「我々の身体の生きる現実の可能的な範囲を押し広げる」ようにして、未来に関わる可能性そのものを作り出し得る」※36というバイオアートについての石橋さんの言葉は、知覚と記憶の風景を書き換えさせて実存的未完了相を開くという先の小林さんのお話とつながっています。その生物学的スケールが単なる人間の技術や人間のアートにとどまっていないところも似ています。また石橋さんが講演でも紹介していた、パナマレンコの飛行装置に関するデューリングの「飛行しないことができるように(pour pouvoir ne pas voler)」※37という言葉にある「?しないことができる」は、第1セッションで金山さんが紹介された、「できない/できる」の二分法ではない見方にも通じているように、わたしには思われました。

石橋友也さん
そしてこうした時間スケールを異にする複数のレイヤーが相互作用して生じる未完了相の議論をうかがっているうちにわたしの頭の中に繰り返し浮かんできたのが、「光速スローネス」という、かつて吉岡洋さん※38により発せられた言葉です。
「それ[待つこと]は、スピードの中にスローネスを発生させ、そのことによって複雑で多層的な現在を経験することではないのか。」※39
ここから吉岡さんが登壇する第3セッションへの移行は、したがって自然な流れであったように思います。

左から、石橋友也さん、小林茂さん、原島大輔さん
2.3 宇宙的転生(繭のソフィア)
第1セッションの振り返りで、こどもから大人への変成を経験しているわたしたちにとってメタモルフォーゼは身近なはずなのにそのことを忘れていると書きましたが、わたしたちにはもうひとつの変成、死への変成があります。これもまた、わたしたちが普段抑圧しているものです。吉岡さんのお話は、まさにその「死」と「転生」に関わるものでした。
講演に先立って会場で配布されたテキスト『文明は繭である』※40は、AI(人工知能)と吉岡さんとの対話形式で書かれています。これを書いたのが吉岡さんなのかAIなのかはわかりませんが、重要なのはその最後で、生と死に意味を与えるものは何かが問われていることです。吉岡さんはたびたび死について触れていますが※41、そこで繰り返し述べられているのは、「能力」を物差しに考える人にとって生きることは能力であり死は能力の欠如なのかもしれないがそれは何かが死ぬのを外から観察した時の話で、自分の死は能力の有無とはまったく関係のない「外部」だ、ということです(「死そのものは経験できない」)。ここでも未来に何も「できない」者になることを恐れて「今」を支配されてしまわぬよう、「できない/できる」を離れて考えることが重要なようです。では何が死に意味を与えるのでしょうか。
吉岡さんはそれが「転生」だとし、こう問いかけていました。「生がこの一度きりで、後にも先にも何もないと考えることと、それが限りなく繰り返される転生のプロセスのひとつのステップに過ぎないと考えるのでは、どちらがより合理的だろうか?」※42と(こうした問いかけこそ、スピードのなかのスローネスなのですが)。

吉岡洋さん
そしてこの問いに一つの答えを与えたのが、大会最後にして最大の衝撃、大久保美紀さんによる、室井尚『情報宇宙論』(1991)の突然の召喚でした(ほんとうに驚きました)。「昆虫の変態というのは神秘的だ。」「あるレベルの存在が、別のレベルの存在にジャンプする。そのとき、すべての細胞が一斉にある一つの統合の力に導かれ、うごめき、炸裂し、別の存在に変わるのだ。」※43と始まるそのテキストは、たしかに繭でこそありませんが、「サナギ」の語で、「古い形態の文明が別の形態に変成する過程のただ中にある」ことを示していました。さらに大久保さんは、続けて「技術は生命の延長でなければならない」、だから「テクノロジーを通じて生命の根源と触れ合う可能性を探らなければならない」※44という室井さんの別の本からの引用もされたと思います。
これが吉岡さんの問いかけへの答えであるというのは、大久保さんによる突然の召喚が、デカルトの「われ思うゆえにわれあり」という格言を人々が唱えるたび、デカルトの精神がわたしたちのなかに再受肉するという「心的な転生」※45が起こる、というコッチャの言葉を思い起こさせたからです。つまりここでは、少なくとも室井—コッチャ—大久保のあいだで、また加えて会場の聴衆、そしてそれについて書いているわたしとのあいだで心的転生が生じているのです。コッチャはまた、同じ「転生」と題した章のなかで、「遺伝子とは、書く行為がみずからの身体の外科手術と一致するような編集者である。遺伝子は止むことなくそれぞれの著作を再発明し変化させており、その著作の意味は自分の身体をもって実現したものと一致する。」※46とも述べていますから、このあと大久保さんがさらにリチャード?ドーキンス「利己的な遺伝子」を取り上げたのもごく自然な流れだったことがわかります※47。そして室井さんとドーキンスさんの召喚は、転生は宇宙規模で起こるとするコッチャの言葉を再び手繰り寄せることになるのです。
「宇宙の物質的な連続性を描くのは容易い。わたしたちの肉が他所に由来していること、その肉がわたしたちの生まれるはるか前からこの惑星に住んでいることを認めるのは造作もない。わたしたちのすべての原子は、わたしたちの生よりも前に多数の生—人間、植物、バクテリア、ウイルス、動物の生—に身体を与えてきたし、今後もけっして終わりえぬダンスのなかで他者にリアリティを与えていくだろう。」※48

大久保美紀さん
2.4 繭の技術とは
ここまでメタモルフォーゼに重点をおいてまとめてきましたが、セッションについての足彩澳门即时盘_现金体育网¥游戏赌场の最後に、「繭の技術」とはなんであるのかに触れておきたいと思います。大久保さんがコッチャの中で最重要とみなしている箇所は、本稿冒頭にも挙げた次のテキストです。
「繭が具現化している技術の考えでは、世界を操作することは、自分自身の本性を手放すこと、その本性を外部に投影するのではなくみずからの内部で変化させることを可能にするものとなる。」「技術—繭を構築するわざ—によって自己は、変様作用の主体になると同時に、その対象や手段にもなる。技術は、生と対立したり生を外部へと延長したりするような力ではない。技術とは、生の最も内的な表現、その本来的なダイナミズムでしかない。」※49
大久保さんがこの繭の考えと、ユク?ホイの「宇宙技芸」論、そしてベルクソンの「一般器官学」を結びつけていることもすでに冒頭で述べましたが、そこで大久保さんがホイについてもベルクソンについても同様に触れているのが、上の引用にある「自分自身の本性を手放す」という箇所です。ホイに関してこれは、「ものの本来のあり方に沿った様態へと導くものこそ良い技であるという道教思想の「道」と、またベルクソンに関してこれは、「道具はそれの制作者の性質にこちらから逆に働きかけ」「いっそう豊かな有機組織を制作者に授ける」という考えと、結び付けられています※50。いずれも、人間主体、人間中心の技術観から解放された、生命論的な技術の見方を示していると言えるでしょう。
しかしこうした生命的、宇宙的な視点に立ちつつ、繭の技術論がほんとうに新たな技術論となるためには、それがどのようにして、「金持ちは金持ちのまま、貧乏人はゴール地点に着いても貧乏なまま」、「西洋人たちはどこにいても西洋人のままであり、アフリカ人は西洋において排除され処罰され続ける」※51といった状況に働きかけることができるのかが明らかにされる必要があると考えています。それはとりもなおさず、第1セッションで提示された課題—更新された技術論を媒介にしてケアの倫理を(新しく捉え直された)技術と架橋すること—に答えていくことにつながっていくはずです。
その答えに至るための示唆は、大会と同時に展示されていた数多くの作品から与えられていたようにも思います。展示の足彩澳门即时盘_现金体育网¥游戏赌场に移りましょう。
3.展示について
展示には学会大会と同じ、「繭の記号論:技術をめぐる倫理?芸術?哲学」というタイトルがつけられています。今回の展示の一部は、過去に行われた展示の再展示です※52。この再展示がもつ意味について、第2セッションで藤幡正樹《Light on the Net》(1996/2024)の再展示に対して小林茂さんが行ったのと同様の考察ができればよいのですが、その力がありません。ここでは、連想的にいくつかの作品を取り上げていきたいと思います。

藤幡正樹《Light on the Net》IAMAS図書館における常設展示
センタービル4階、大会受付前のエントランスをまるごと使っていたのは、兒島朋絵《あわい|between us》(2025)でした。参加者の声が作品を構成し、参加者が増えるたびに作品の姿が変容していくことを他者による自己の変容に重ねたこの作品が、大会を訪れた人が最初に出会う作品だったのは、象徴的でした。学会もほんらいそうした場だからです。またそれは、第1セッションで金山さんが取り上げたケアの考えと、深く共鳴しているように思われます※53。しかし同時にこの作品越しに見えていたのが、瀧健太郎《ダーク?ツーリズム》(2016)であったのも印象的です。それは、他者による自己の変容という言葉を拒絶する現実を突きつけてくるように思われました。第1セッションと同様、ここでもまず、参加者の身体が両極に揺さぶられたように感じます。

手前に兒島朋絵《あわい|between us》、奥に瀧健太郎《ダーク?ツーリズム》
この現実は、センタービル3階で展示されていた、Yukichi INOU?《Mille et une têtes》からの4つの頭部、にわたしの思考を運びます。沖縄戦で父を亡くした井上さんは、「人間の歴史のパラドクス」についてこう語っていました※54。それは戦争と平和、破壊と修復の繰り返しである、と。憶えていない父親の声に対する責任を果たすためにパリに移動し沖縄の石に顔を掘り続ける—どうしてもレヴィナスを思い出してしまうのですが—、この石を掘ることも破壊と修復、あるいは破壊と創造の繰り返しである、と。

IAMASギャラリー1展示風景、奥にYukichi INOU?《Mille et une têtes》
そうしたなか、同じセンタービルの4階で、「狛江の小さな沖縄資料館」(東京都狛江市)に関わる展示に出会います。資料館主催者である高山正樹氏(M.A.P.)が米の紙袋で制作したという、資料館を貫くように捩れながら伸びる「ガジュマルの樹」に(小さな写真であるにもかかわらず)圧倒されます。それはこの資料館に集まる人と情報の「繋がり(リンク)を象徴する」※55ものだそうです。この樹に相当するものとして今回展示されたのが、上松大輝+水島久光+椋本輔《Illusionary Banyan: meta-data as semiosis》(2025)でした。「「正しさ」や「データ量」だけが問われる固定的な情報」ではなく、「そこに意味を見出す我々のコミュニケーションの中で動的に意味が更新され続ける「記号過程=セミオーシス」」※56としてメタデータを捉え直した試みで、実際参加者がコメントを書き込むにつれ、プロジェクションされたガジュマルは変化し続けていました。それは展示されていた大城弘明氏の写真とならび、「他者の視点への想像力を媒介するメディア」としてのデジタルアーカイブを目指しているという点で、ケアにもつながっていくものと考えられます。

上松大輝+水島久光+椋本輔《Illusionary Banyan: meta-data as semiosis》部分
この、固定的情報とセミオーシスの対比は、計測の時間と人間の時間という、セッションでの話題にもつながっていると感じます。この両者の関係を正面から捉えたのが、林晃世《足の裏ガムラン》(2025)です。心拍センサーによる計測などでは捨象されてしまう長周期の血行動態を足の裏から取り出して可視化し、それをガムランの数字譜に変換したものを演奏者(マルガサリ+IAMASガムラン部+α)※57が演奏するというものです。計測により正常/異常を分けるのは「できる/できない」を前提にしてできないものを排除することに通じます。それを避けつつ、しかしやはりなんらかの仕方で数値化されたものを、もう一度人間が演奏することで着地させる(足の裏だから「接地」でしょうか)。演奏は—林さんの足裏コントロールも含めて—スリリングでした。

林晃世《足の裏ガムラン》演奏後、林さんとマルガサリの皆さん
もはや余裕もありませんので、簡単にしか触れられませんが、本大会に最も関連の深かった作品として、福島あつし《僕は独り暮らしの老人の家に弁当を運ぶ》(2021)、《ぼくは夏の畑で生き物たちと野菜を奪い合う》(2024)が挙げられるでしょう。それは、ケアやコッチャの議論と結びつくものでした。食べることや農業との関わりについては、『食(メシ)の記号論』、さらには『生命を問い直す』など、過去の大会での議論をも召喚します。

福島あつし《僕は独り暮らしの老人の家に弁当を運ぶ》
また、平瀬ミキ《氷山の一角》(2018,2024改作)、中岡孝太《one day ///tokyo》(2025)、中村駿《re-Present》(2025)は、今日のデジタル環境やAI技術の普及のなかで、ベルクソン的な記憶の理論がなぜあらためて問い直されているのかを教えてくれるように感じました。
宮沢らも《ルリホコリの夢—バーチャル楽器》(2024)は、粘菌の一種であるルリホコリを鍵盤に見立てたVR楽器でしたが、楽曲や楽器の制作とそれを用いた演奏活動が持つ意味について再考させる作品でした。
最後に、石橋友也《金魚解放運動》(2012-2017, 2024改作)について少しだけ触れます。金魚から大会のテーマである繭をはく蚕を思い浮かべた人は多いと思います。わたしにとって印象的なのは、金魚だけでなく、《Self-reference microscope》(2025)などで取り組んでいる川もまた、人と自然と技術の協働の産物だ、ということです。「川で拾ったものを使って作った顕微鏡で川で拾ったものを見る」という自己言及的作品を見ていると、川のなかに顕微鏡は潜在していたのだとわかります。ここでジュゼッペ?ペノーネ《川になる》シリーズ※58を思い出す人もあるかもしれませんが、川で拾った石を模した彫刻を制作することで川の技術を表現するペノーネと石橋さんが考える川の技術の背後にある技術観※59には違いがあるように感じます。近代技術や科学的言説から疎外されてきた芸術を、技術に関する表現の一形態として捉え直し、「世界について根本的に新しい視点を提示し、現実世界を変化させうる」ものと考えるには、両者の違いが何かを考える必要があります。それを考えることで、繭の技術論を現実世界の変化へと繋げていくことが自分にとっての今後の課題であると記して、この足彩澳门即时盘_现金体育网¥游戏赌场を終わりたいと思います。ありがとうございました。

石橋友也作品の展示風景
なお、本文中で触れた2つの研究会は、次の要領で開催されます。
- 「記号?時間?ランドスケープ――マルチ時間スケール(MTS)記号論とメディアアートの可能性」(オンライン)
開催日:2025年8月17日
主催:日本記号学会:情報技術とプラグマティズム研究会 - 「繭のアルス」IAMAS大会後続編ディスカッション(二松学舎大学)
開催日:2025年8月20日
主催:第45回日本記号学会大会実行委員長?大久保美紀
謝辞
学会の大会でこのように多くの展示や演奏が繰り広げられたのも、会場が足彩澳门即时盘_现金体育网¥游戏赌场(IAMAS)であったからこそです。あらためまして、スタッフの方々をはじめ、開催にご尽力いただきました関係者のみなさまに、厚く御礼申し上げます。また、最後になりましたが、大会メインビジュアル《Cocoon -blue-》《Cocoon -gold-》(2019)の作者である杉浦今日子さんにも、深く御礼申し上げます。京都で一度しか見られないと思っていた作品が、メインビジュアルになって毎日見られるようになったのは、嬉しいことでした。
文献
飯田豊、喜多千草、篠原資明ほか(2018)「藤幡正樹《Light on the Net》を解読する」『情報科学技術大学院大学紀要』9, pp.174-183
石橋友也(2024)「バイオアートをプロトタイプ論から読み直す」『記号学研究』2, pp.36-52 [DOI 10.602367/74658384.1.3]
伊藤亜紗(2019)『記憶する体』春秋社
稲垣諭(2020)「ありのままの生とインタビュー中心主義の帰趨—「ケアの現象学」の素朴さが映すもの」『実存思想論集』35, pp.53-74
ウォラック, ウェンデル&コリン?アレン(2018)『ロボットに倫理を教える—モラル?マシーン』(岡本慎平?久木田水生訳)名古屋大学出版会〔原著2008〕
大久保美紀(2025a)「「潜在的患者」をめぐる技術の道徳性:超音波検査機の例から「繭」の技術論まで」大久保美紀編『poison rouge 現代社会における〈毒〉の重要性2024』5, 足彩澳门即时盘_现金体育网¥游戏赌场, pp.39-54
大久保美紀(2025b)「「繭」という技術:エコロジーを思考する芸術は可能か」鳥羽都子?大久保美紀編『繭/COCOON:技術から思考するエコロジー』岐阜県美術館+IAMAS, pp.6-7
大久保美紀(2025c)「IAMAS ARTIST FILE #10 繭/COCOON 技術から思考するエコロジー」『足彩澳门即时盘_现金体育网¥游戏赌场紀要 2024』16, pp.53-80
大久保美紀(2025d)「エマヌエーレ?コッチャの「繭」の理論に基づく「エコロジーアート」の批評—展覧会「遍在、不死、メタモルフォーゼ」の実践を通じて」『足彩澳门即时盘_现金体育网¥游戏赌场紀要』16, pp.111-122
小川明子(2024)『ケアする声のメディア—ホスピタルラジオという希望』青弓社
金山智子編(2024)『ケアするラジオ—寄り添うメディア?コミュニケーション』さいはて社
久木田水生、神崎宣次、佐々木拓、本田康二郎(2025)『AI?ロボットからの倫理学入門』名古屋大学出版会
クーケルバーグ, マーク(2024)『デジタルテクノロジーと時間の哲学』(直江清隆?佐藤駿?鹿野祐介訳)丸善出版
クラーク, アンディ(2015)『生まれながらのサイボーグ―心?テクノロジー?知能の未来』(呉羽真、久木田水生、西尾早苗訳)春秋社〔原著2003〕
コッチャ, エマヌエーレ(2022)『メタモルフォーゼの哲学』(松葉類?宇佐美達郎訳)勁草書房〔原著2020〕
沢辺満智子(2021)「蚕の女神—養蚕の技術と信仰の重なりから」高木?高馬編『越境するファッション?スタディーズ』ナカニシヤ出版, pp.3-17
谷口忠大編(2024)『記号創発システム論—来るべきAI共生社会の「意味」理解に向けて』新曜社
鳥羽都子(2025)「芸術は繭である」鳥羽都子?大久保美紀編『繭/COCOON:技術から思考するエコロジー』岐阜県美術館+IAMAS, pp.42-43
中山健夫?石川翔吾(2024)「ヘルスケアにおけるナラティブ」『人工知能』39(5), pp.629-633
ハラウェイ, ダナ(2000)『猿と女とサイボーグ—自然の再発明』(高橋さきの訳)青土社〔原著1991〕
平井靖史(2017)「〈時間的に拡張された心〉における完了相の働き—ベルクソンの汎質論と現象的イメージ」平井?藤田?安孫子編『ベルクソン『物質と記憶』を診断する—時間経験の哲学?意識の科学?美学?倫理学への展開』書肆心水, pp.160-185
平井靖史(2018)「現在の厚みとは何か?—ベルクソンの二重知覚システムと時間存在論」平井?藤田?安孫子編『ベルクソン『物質と記憶』を再起動する—拡張ベルクソン主義の諸展望』書肆心水, pp.175-203
増田展大(2023)「分解と発酵の記号論?セッション報告」日本記号学会編『生命を問い直す』(叢書セミオトポス17)新曜社, pp.68-80
村上靖彦(2018)「現象学をベルクソン化する」平井ほか編『ベルクソン『物質と記憶』を再起動する—拡張ベルクソン主義の諸展望』書肆心水, pp.81-95
室井尚(1991)『情報宇宙論』岩波書店
室井尚(2000)『哲学問題としてのテクノロジー』講談社
室井尚?吉岡洋(2024)『連続講座:哲学とアートのための12の対話—「現代」を問う』12の対話実行委員会(TWD)
吉岡洋(2003)「「待つこと」の現実性(アクチュアリティー)」『Diatext.』8(特集スローネス), 京都芸術センター, pp.6-11
吉岡洋(2025a)『AIを美学する』平凡社新書
吉岡洋(2025b)「繭をめぐる断想」大久保美紀編『poison rouge 現代社会における〈毒〉の重要性2024』5, 足彩澳门即时盘_现金体育网¥游戏赌场, pp.5-12
吉岡洋(2025c)『文明は繭である』(第45回日本記号学会大会席上配布資料2025年7月5日?6日)
吉森保?吉岡洋(2023)「オートファジーと死なない生命—細胞のリサイクル?システムから考える」日本記号学会編『生命を問い直す』(叢書セミオトポス17)新曜社, pp.82-120
Hirai, Yasushi & Kobayashi, Shigeru (2025), Transforming Memory Landscapes: An expanded Bergsonian approach to temporal structure in media art experiences, Francesca Franco and Clio Flego (coords.), Node “Memory matters: navigating the history of media art, science and technology”, Artnodes, no.36, UOC. [Accessed:06/08/2025] https://doi.org/10.7238/artnodes.v0i36.431873
Kobayashi Shigeru & Hirai, Yasushi(2024), Extending Research in New Media Art Conservation: A Bergson-Inspired Multi-timescale Approach, RE:SOURCE (Proceedings of the 10th International Conference on the Histories of Media Art, Science and Technology), Resource ETS, pp.79-86 [https://www.mediaarthistory.org/?page_id=4393]
Puig de la Bellacasa, María (2017), Matters of Care: Speculative Ethics in More Than Human Worlds, posthumanities 41, University of Minnesota Press, Kindle
注釈
※1 大会実行委員長。専門は美学?芸術学。大久保さんがコッチャをどう理解しているかは、大久保2025a、2025b、2025c、2025dを参照のこと。
※5 共食ワークショップにも、展示を見ていて遅れてしまいました。申し訳ありません。平塚弥生さんの作品(食品)、おいしくいただきました。
※6 本稿では紙幅の関係で分科会については触れていません。ご容赦ください。
※7 小見出しの最後にカッコ内に書いてあるのは、もとのセッションタイトルです。
※8 コッチャは、「わたしたちを貫き、わたしたちを変様させる潜勢力は、いかなる点でも意識や人格による意志のはたらきではない。この潜勢力は他所から来るのであり、それがあらゆる決断を超えて作り動かす身体よりも古いのである。」(コッチャ2022, p.53)と述べていますが、このことは、技術=能力すなわち「できること」という思考の枠から抜け出すことを説いているように感じます。わたしたち自身が経験してきたメタモルフォーゼが自分の力などによっては起こっていなかったことを考えれば、理解できないわけではありません。だから苦しいこともたくさんあるのですが。吉岡さんの『文明は繭である』には、文明が繭なら、蚕にとっての繭を人間が利用しているように、文明もまた人間以外の「〈誰か〉がまったく別の目的のために飼育、栽培している」(吉岡2025c, p.11)と考えた方がよいのではないか。もしそうなら、人間が繭から糸を取り出して繭からは想像もつかない織物に作り変えるように、文明という繭も、「〈誰か〉によって想像もできないような織物へと作り変えられ」「そのことを通じて人類が別な存在へと転生する」(吉岡2025c, p.15)可能性があるのではないか、と述べる箇所があります。『文明は繭である』は小説なのでこれが吉岡さんの考えと同じであると断言することはできませんが、この考えは、コッチャに通じているように思います。
※9 とうの昔に捨てられた考えのはずなのに、実際には今もその前提で世界は動いています。ほんとうに不思議なことです。殺処分という発想もここから生まれるのだと思います。コッチャさんは言います。「わたしたちは自分自身のうちに、自分の両親、祖父母、その両親、人間以前の霊長類、魚、バクテリア、そして炭素、水素、酸素、窒素等々といった極小の原子に至るまでを運んでいる。」(コッチャ2022, p.44)三木茂夫さんを思い出した方もあるかもしれません。
※10 コッチャ2022, p.54 自分が影響を被ることなく他を変える、これは能動/受動の枠組みにおける能動の説明でもあります。
※11 第1セッション登壇者。専門は技術哲学、ロボット倫理学。
※14 クーケルバーグ2024、Puig de la Bellacasa 2017、吉岡2003など参照。
※15 第1セッション登壇者。専門はメディア?コミュニケーションにおけるケア。
※17 村上2018, p.83 これは科学技術により駆り立てられた農業とは異なる「土壌ケアsoil care」においては、「未来の成果という直線的な到達目標に向けて縮められ?従属させられたタイムラインではなく、もつれあい?巻き込まれた複数のタイムラインの多重性a multiplicity of entangled and involved timelines」があり、そのために「現在が稠密で厚みのあるものになる」(Puig de la Bellacasa, 3543)と述べたPuig de la Bellacasaも思い起こさせます。Puig de la Bellacasaについては、増田2023, p.77注11も参照のこと。
※18 それを「データ」と見ている時点で拒否反応が起きる人もあるかもしれませんが学術の立場からはそれがなければ誰の役にも立つことができません。伊藤亜紗さんが、テープ起こしの際、「インタビュー時には気づかなかった声の肌理や感情の動きが伝わってきてゾクゾクします。」(伊藤2019, 奥付)と書いているようなことがうまく汲み上げられればよいのだと思います。
※19 中山?石川2024, p.630 指摘の通りと思います。だからこそ逆に重要なわけですが、そこでは倫理や時間をかけた信頼の醸成が求められます。
※20 稲垣2020, pp.70-71 ただしその結果、「健康管理が至上命題になってしまい、患者や入居者のコミュニケーションや生をめぐる悩みは二の次にされがち」になっては仕方がないでしょう。「当人にとっては、病そのものよりも、生きる意味の喪失や長く親しんできた人間関係を失うことのほうが重要な問題」(小川2024, p.200)かもしれないからです。
※21 機械だけでなく、地理的、言語的、思想的に遠い相手なども含まれます。人より機械に共感する人もたくさんおられるので、一概には言えません。
※22 クラーク2015, p.6 しかしその前に、「なぜ、我々の身体は、皮膚で終わらなければならず、せいぜいのところ、皮膚で封じこめられた異物までしか包含しえないのだろうか、と。」「我々にとって、我々が想像をはじめとする各種の行為を実践する際には、機械は、生体の欠損部分?機能を補う装置とも、親密な部品とも、近しい自己ともなりうる。」と述べたダナ?ハラウェイがいたことを忘れてはならないでしょう。(ハラウェイ2000, p.341)さらにこれは、アン?マキャフリー『歌う船』(1969)にまで遡るわけですが…。
※23 人と技術が協働で引き起こす変化の可能性に関連して、当事者が技術を手にすることについては、伊藤2019も参照。伊藤2019は、人が多重の記憶(多重の身体)、多重の時間スケールを生きていることを理解する上でも、極めて重要です。
※24 Kobayashi & Hirai 2024, p.83, Hirai & Kobayashi 2025, p.4などを単純化した理解で恐縮ですが、現代の認知科学における入れ子時間スケール(nested timescales)モデルも考慮しつつ、人間の時間分解能以下の物理時間のレイヤー(physical time layer)をいちばん下(物質の時間、10-15秒程度、レイヤー0)、その上に人間にとって最小限の知覚可能時間スケール(10-3秒、レイヤー1)、その上に人間における現在の幅(the width [breadth] of the present in humans、100秒、レイヤー2)、さらにその上に人生の時間(109-10秒、レイヤー3)という4つのレイヤーを考え、各レイヤー間の垂直的相互作用を考えます。0から1への凝縮(contraction)で、物質環境の情報の冗長性を削減し人間の低い(しかし生態学的には有意な)分解能で扱える現象的感覚質とし、また2から3への凝縮で、刹那的な感覚質を手持ちのイメージ記憶の中からピックアップした適切な素材を適当にブレンドしてまとめてしまいます(完了相)。未完了相は、レイヤー1と2、そしてレイヤー2と3のあいだに開かれますが、それぞれの開かれ方は違っています。レイヤー1と2のあいだでは、0と1のあいだで凝縮により創発された質の配列を決めるために流れが生まれることで開かれます(知覚の未完了相perceptual imperfective、ここで用いられている「折り合い」モデルについては、Kobayashi & Hirai 2024, p.84を参照)。レイヤー2と3のあいだの未完了相は、通常なら現象的感覚質をステレオタイプな感覚運動図式に落とし込むはずの意識が過去の多様な経験を探索し始める、つまり探索的想起an exploratory rememberingのために開かれてしまうのです(記憶の未完了相mnemic imperfective)。間違えてはいけないのは、完了相は未完了相を開くために必要な相棒(「媒介」)で、それがなければ何も起こりません。このことは、体験の時間と計測の時間を対立させて終わりにするのでも、混同してしまうのでも、どちらか一方に切り詰めてしまうのでもないのと似ています(「客観的物理宇宙」と「主観的知覚世界」を「存在論的に剥離?二重化」せず、「質量的には部分的に共通の構成素から織りなされていても、システムとしては独自性を有した別個のもの」(多重構成で独立的)と考える。平井2018, p.182)。ベルクソンは「単なる全般的な流動主義と一緒にできない」(平井2017, p.163)し、彼の言う「持続(durée)」は「スケールフリーではない」(Kobayashi & Hirai 2024, p.83)のです。
※25 Hirai & Kobayashi 2025, Kobayashi & Hirai 2024 小林さんは技術論、平井さんは近現代フランス哲学がご専門です。集団的予測符号化理論とべルクソン哲学に由来するマルチ時間スケールやtime landscapesについては平井さんの分科会発表で詳しく語られました。谷口2024, p.245も参照。
※26 『足彩澳门即时盘_现金体育网¥游戏赌场紀要』16, p.52を参照。大会期間中にもIAMASワークショップ1階図書館で再展示されていました。https://www.lightonthe.net/
※27 Hirai & Kobayashi 2025, p.6
※28 Hirai & Kobayashi 2025, p.7
※29 Hirai & Kobayashi 2025, p.8
※30 Kobayashi & Hirai 2024, p.80
※31 Hirai & Kobayashi 2025, p.5
※32 Hirai & Kobayashi 2025, p.5 飯田ほか2018での議論も参照のこと。
※33 Hirai & Kobayashi 2025, p.5
※34 専門は芸術実践。生物学を修め、現在はIAMAS博士後期課程に在籍中。
※35 石橋2024を参照。一見すると、決まりつつあるが決まっていないという未完了相の考えは、かたちを持たないプロセス重視のプロジェクト型アートの方と親和性が高いと思われるかもしれません。しかし言うまでもなく《Light on the Net》での未完了相は、システムとして動作しその成否を判断できる装置から生まれています。
※39 吉岡2003, p.11。マルチ時間スケールの垂直的相互作用とはかなり違う説明方式ではありますが。
※41 吉森&吉岡2023, 室井&吉岡2024, p.196, 吉岡2025a, p.92,
※45 コッチャ2022, p.115。日本語訳では「物理的転生」ですが、フランス語原文を参照し、「心的転生」としました。
※46 コッチャ2022, p.117 ただし人々はデカルトではないから、そう唱えられるたびデカルトは、人々に対して、「あなたがたは「われ」ではない」と逐一反論するはずと付け加えているのが面白いです。
※47 ドーキンスの「利己的な遺伝子」は1976年刊ですが、日本語訳の出版は1992年です。たしか室井さんがブログで、あんなの俺が『情報宇宙論』で考えたのと同じ、と書いていたのを見た記憶があるのですが、見つかりませんでした。
※51 コッチャ2022, p.51 人ごとではありません。自分自身は変わらないで、世界の方を変えようとする。組織を変えることなく構成員の方を変えようとする。アートという制度を変えずに、アーティストのほうを変えようとする。学はこうあるべきとして、それに当てはまらないテキストは論文とみなさない。記号学会は大丈夫でしょうか。IAMASは大丈夫でしょうか。
※52 IAMAS ARTIST FILE #10「繭/COCOON:技術から思考するエコロジー」展(参加作家:ジャン=ルイ?ボワシエ/クワクボリョウタ/西脇直毅/florian gadenne + miki okubo/石橋友也、会期2025年1月10日から3月9日、岐阜県美術館)、そして「石に話すことを教える—生きるという〈わざ〉」展(参加作家:井上佑吉/大久保美紀/杉浦今日子/堀園美、会期2025年3月15日から3月30日)前者については、大久保2025c、鳥羽2025に詳細な紹介がありますので、参照してください。そこで取り上げられていた作家さんについては、石橋さん以外触れていません。ご容赦ください。
※53 再び引用します。「わたしたちは自分自身のうちに、自分の両親、祖父母、その両親、人間以前の霊長類、魚、バクテリア、そして炭素、水素、酸素、窒素等々といった極小の原子に至るまでを運んでいる。」(コッチャ2022, p.44)
※58 https://giuseppepenone.com/en/words/to-be-a-river
※59 石橋さんはしばしば『HARNESSED』(『〈脳と文明〉の暗号—言語と音楽、驚異の起源』(中山宥訳)ハヤカワ文庫)などの著者マーク?チャンギージーに言及しますが、それだけからその技術観を決めつけるわけにはいきません。いつかまた考えてみたいと思います。